2008年5月28日水曜日

A代表はキリン杯ですが、U23もがんばってます

「戦い方」はわかったが「勝ち方」を知らなかった U23日本代表
 PKを失敗した水野は顔を覆ってしばらく動けなかった。前半20分にGKと1対1となる最大の決定機をDFに阻止された森本は天を仰いだ。2人とも「負けは自分のせい」と責任を背負い、イタリアからの金星を逃した後悔をにじませた。

 日本の“色”は出ていた。イタリアがボールを持つと1人が素早く寄せ、抜かれれば二の矢、三の矢を放って敵の攻撃を食い止めた。中盤で小気味よくパスを回して相手ゴールにも迫った。「局面局面で数的優位を作れた」と森重は振り返った。

 敵より汗をかき、多くの人手をかけ、五輪本番の優勝候補と互角に渡り合った。反町監督は「実力差を埋める『何か』を見つけられたのでは」と収穫を口にした。五輪でも直面する強豪との「戦い方」がピッチに描けたということだろう。

 ただ、何かが足りないから勝てないのも事実。反町監督は「うちは中2日、相手は中1日。向こうの足が止まった時間を突ける強さがあれば…」と指摘した。勝利を逃した選手が欠いたのは、したたかな駆け引きもできる「勝ち方」だった。

 3位決定戦でぶつかるコートジボワールも、イタリアと同じく1軍の“北京五輪仕様”。「勝って帰りたい」と西川。五輪1次リーグで対戦する仮想ナイジェリアになることはもちろん、「勝ち方」も体に刻み込む幕引きをしたい。


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2008年5月15日木曜日

やっと勝った


千葉爆弾がついに炸裂!

・・・と言いたいところだけど、課題は山積みに見えました。
相手が京都だったから勝てただけ

京都は田原をターゲットにロングボールを多用。
千葉はDF斉藤をボランチに上げて、田原に仕事をさせなかった。

これがうまくいっただけに思います。
あさっての大分戦でどれだけできるかが重要です。
私ももちろんフクアリにかけつけます!


 終了を告げるホイッスルが響いた瞬間、千葉の選手は笑顔で固く抱き合い、まるで優勝したかのような大歓声がピッチを包み込んだ。12試合目で待ちに待ったリーグ戦初勝利。長いトンネルを抜け出し、坂本は「うれしい」と涙を浮かべた。

 勝利への気迫が90分間みなぎっていた。クゼ前監督が7日に解任され、選手全員で話し合った。「監督1人の責任じゃない。先に点を取るためリスクを冒そうと話した」と坂本。監督交代の荒療治は、選手に攻撃的な気持ちを呼び戻した。

 後半23分の決勝点は選手の思いが結実した。新居からの縦パスを受けたレイナウドのシュートがポストに当たったところを、詰めた工藤が押し込んだ。「感覚で走り込んだ」と工藤は照れたが、“虎の子”の1点は得点意識の高さが導いた。

 近くの選手の間を何度もパスが往復し、敵のゴールに迫れないかつての姿も減った。京都の加藤監督が「気力、運動量、球際の強さすべてで相手が上だった」と舌を巻いたように、監督交代の“カンフル剤”はひとまず効いたようだ。

 この日朝に来日、試合前にはサポーターにあいさつしたミラー新監督は「非常に気持ちが入ったプレーだった」と高く評価。近日中にベンチに入る際の重視する方針について「チームとしてまとまること」を挙げた。突出した個人の能力に頼らない千葉と相性がよさそうな新指揮官の下、浮上を狙う。

千葉、待ちに待った初勝利 監督解任に奮起

新居辰基

2008年5月14日水曜日

サザンオールスターズ解散のウワサ

巷ではサザン解散のウワサが報道されていますが、正式な発表は19日に行われるそうです。

ロックバンド、サザンオールスターズに解散説が12日、降りかかった。同日付の夕刊紙「東京スポーツ」が「サザン解散」の大見出しで報じた。記事の内容はデビュー30周年ツアーを行った後、来年以降の活動を休止するというもの。

 これを受け、所属レコード会社のビクターエンタテインメントが同日午後にマスコミ各社にファクスを送信。「あくまでも推測による記事で、大変困惑しています。19日に正式発表をさせていただきます」と、事態の収拾に躍起となった。
サザン解散騒動、事務所側が“全面否定”…19日に正式発表

日本を代表する5人組ロックバンド。

1974年、青山学院大のフォークソング同好会に参加していた桑田佳祐(ボーカル兼ギター)と関口和之(ベース)が「温泉あんまももひきバンド」を結成。
その後、桑田はバンドを作っては解散を繰り返し、大森隆志(ギター)、原由子(キーボード)が加入。
75年にサザンオールスターズと名乗るようになり、77年に松田浩(ドラム)が加わり、アマチュアバンドの祭典、East West決勝大会に入賞。桑田はベストボーカル賞を受賞。

その後、野沢秀行(パーカッション)が加入し、78年6月に「勝手にシンドバッド」でデビュー。

早口の歌詞とハチャメチャなパフォーマンスで当初、コミックバンドと評されるが、79年の「いとしのエリー」の大ヒットをきっかけに日本ロック界の王者に君臨し続ける。

その後も「チャコの海岸物語」「Bye Bye My Love」などヒットを連発するも85年に活動停止。

3年のブランクを経て88年に「みんなのうた」で再始動。
「真夏の果実」「涙のキッス」「エロティカ・セブン」「マンピーのG★SPOT」「愛の言霊」などの名曲を生んだ。

2000年には「TSUNAMI」が300万枚を突破し、同年の日本レコード大賞を受賞。
同年8月に行った桑田の故郷、神奈川・茅ケ崎公園野球場でのライブは社会現象にもなり、日本ロック史に残るコンサートとして語り継がれている。

01年に大森が脱退。

05年に7年ぶりのオリジナルアルバム「キラーストリート」を発売し、サザン初の5大ドームを含む全国ツアーを展開し、50万人を動員した